山小屋の朝、戦慄の厨房
甲武信小屋の朝は早い。
お泊りの方には朝5時に食べていただく。
いつかの朝食準備風景、何時の朝の仕事風景をご紹介しよう。
いつも通り、しかしいつもと違うある日の朝の話。
食事の一時間前、4時に目覚ましで起きる。
いつもは目覚まし鳴る前に目が覚めるが、今日は目覚ましに助けられた。
寒い。眠い。酒がまだ残っている。
10分寝坊を決め込む。
相棒のごっちゃんには、その日ボッカに行ってもらうので寝ていて良いと言ってある。今日の朝飯は6人分だ。
二人でやる仕事ではない。
注:写真は本文と関係ありません。
時計に目をやる。食事まであと50分。
勇気ある決断でガバッと布団を跳ね除ける。気温は3度。
厨房に立ち、米の入った圧力鍋に火を入れる。
今日は眠い。昨晩はお酒もたいして飲んでいないのにやたら残っている。
昨日はボッカに行った。疲れているに違いない。白湯を飲んで気合を入れる。
時計に目をやる。食事まであと45分。
茶碗蒸し用の卵を溶く。よく溶いて昨夜とっただし汁と合わせる。それを茶碗蒸し用の釜に慎重に入れる。点火。
時計に目をやる。食事まであと40分。
昨晩とっておいたポットのお湯を沸かし直す。点火。
時計に目をやる。食事まであと38分。
朝食のおかずを作る。
たくあん、昆布の佃煮、梅干し、お豆さん等。山小屋の朝食はたいした物ではない。
慣れた手つきで素早く作る。
時計に目をやる。食事まであと33分。
グレープフルーツを切り分ける。一個を10等分だ。熟達した包丁技術が要される。
注:写真は本文とは関係ありません。
時計に目をやる。食事まであと30分。
食堂のテーブルを拭く。
醤油とごま塩をテーブルにセット。
トイレに行くお客さんを横目にサクサク働く。
(間も無く美味しいご飯の時間ですよ)と背中に向かって優しく心で囁く。
時計に目をやる。食事まであと20分。
味噌汁の鍋に火を入れる。
オーナー徳さんのお母さんが育てたインゲン豆の味噌汁にしよう。
下茹して取り分ける。
時計に目をやる。食事まであと15分。
お盆を6枚並べ、お茶碗、箸、海苔、茶碗蒸し用のサジ、グレープフルーツ、おかずの乗った皿、これらを美しくお盆に並べる。
整然と並んだ6人分の朝飯の盆にうっとりとしながら、お櫃(おひつ)に湯を張る。
注:写真は本文とは関係ありません。
時計に目をやる。食事まであと10分。
ここからが勝負だ。
ご飯、味噌汁、茶碗蒸し、暖かい物は熱々で出す。
茶碗蒸しをチェック。
完璧な仕上がりに一瞬気絶しそうになる。
お櫃の湯をバケツに捨てて固く絞った布巾で拭き熱々のご飯を入れる。
この飯の匂いに昇天しそうになる。
その時、相棒のごっちゃんがトイレに通過。
まだ寝ていて良いのに、手伝う気だろう。真面目なやつだ。
お櫃とお茶のセットをテーブルに並べる。
トイレから帰ってきたごっちゃんが立ち止まる。
俺は気にも止めず一心不乱に朝食の佳境にはいる。
「早いですねえ」
と、ごっちゃんが呟く。
とりあえずシカトする。
心の中で
「当たり前だろべらんめえ、こちとら厨房にへえってから鬼になるんでえ、おめえだって一緒に仕事してるんだ、わかっだろ!今更何言いやがる!」
と心で叫ぶ。
「何か手伝いましょうか?」
と言われたら
「だいじょぶ、まだ寝てていいぞ」
と言うつもりだ。
しかし何も言わずにボケっと突っ立っているごっちゃん。
イラっ!
しばらくして何も言わずにふらっと部屋に帰って行った。
時計に目をやる。食事まであと5分。
さあ味噌汁の味噌を溶かすぞ!
まさに分刻みでの朝の準備!
今日も叫びたくなる位の完璧さでフィニッシュだ!
その時、最後に時計に目をやる。
その瞬間、身体が凍りついてしまった。
厨房の時計、止まってる??
え?
腕の時計を見る。
え?え?
携帯の時計を見る。
え?え?え?
厨房の時計をもう一度見る。
長い針ばかり見ていたが、短い針を見る。
午前1時。
寝坊したことがあっても、4時間前に食事の支度を完成させたのは初めてだ。
真夜中、目を三角にして、時間を気にして、一心不乱に••••••。
お客さんが寝ている部屋の電気を付けて
「おはようございます!食事の用意が出来ました!」
と叫ぶ寸前で気付いた事は、不幸中の幸いなのか?!
焼酎を注いで、厨房にへたり込んで、一杯飲んだ。
ごっちゃんの、「早いですねえ」が頭の中にこだましていた。
早すぎです。はい。
日に何十回も目をやる甲武信の厨房、時の神。はっきり言って見にくいが、もう慣れた。
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